創作小説カーネリア・第3章<修道女(シスター)>
2005年12月12日 エッセイ列車は、霧の中を、飛ぶように走っていた。窓ガラスに吹き寄せられた水滴が透明なすじになって、いつまでも同じところで身をくねらせ続けている。
車窓に額をくっつけたまま、指で2枚のチケットをこすり合わせた。帝都から鉄道ではるか南部の国境の都市へ、王国に行くにはそこから飛行船に乗り換えることになる。券はどちらも1等旅客の指定だ。客車はほぼ満席だったが、僕の隣には誰も座らなかった。もしかしたら、ミヒュトのやつがわざわざ空けたのかも知れない。だとすれば、今度の仕事はやつにとってもよほど割が良いに違いない。
「王国に行かれるんですか?」
鉄路の旅も半ばを過ぎた頃、突然声をかけられて、僕は顔を上げた。通路にひとりのご婦人が立っていた。
3重のバックルでコートの胸元を留めたその女は、30代の半ばくらいに見えた。わずかに肩にかかるほどの薄茶色の髪に、同じく茶色の瞳。よろしいですかと膝を折って僕の隣の空席を指し、「あちらは煙草の煙がひどくて」そう呟きながら、紫色の空気が漂う後ろの方へと視線を泳がせる。
僕は黙ってうなずき、足元のバッグを窓側に引き寄せた。女は礼を言い、隣の席に腰を降ろした。
彼女はしきりに話しかけてきた。僕は導力関係の仕事で王国向かう途中だということにして、適当に話を合わせた。彼女の方は、教会の慈善運動とかで、国境の都市に用事があるとのことだった。
「一応、シスターって呼ばれているんですよ」黒い革のブーツに包まれた足を組みかえると、女は喉の奥で笑い、「あだ名ですけどね」と続けた。「シスター・カーネリア」それが彼女のあだ名だった。
そのまま僕とシスター・カーネリアはしばらく世間話を続けた。陽は西に傾き始め、木立を抜けるたび、オレンジ色の光が客席の上をなめていった。西日を浴びて、彼女の茶けた瞳は赤き耀を放ち、僕は紅耀石(注1)に通じるそのあだ名の由来を想像した。
やがて列車はゆるやかに速度を落とし始め、荷物を取りに彼女は席へ戻った。僕はもう習慣になった動作で、バッグと魔法用の導力器を調べたが、反故紙の包みも、編み鎖で腰に留めてある導力器も、どっちも無事だった。
定刻通りの到着を告げる女性の声が車内に流れた。到着地の天候は雨。座席の間からいくつかのため息がもれた。ぼつぼつと窓に雨粒が弾け、青黒い町の影が、見る間に迫ってくる。駅の信号灯が、水滴に散乱して角ばった光を放っていた。背筋の冷たくなる金属音、そして、導力機関の推力が反転する衝撃。
手荷物への注意を呼びかけるアナウンスが入って、乗客がばらばらと通路に立つ。雨の中で手旗を振る駅員の制服を見ながら、僕もバッグを抱えて立ち上がった。
通路で、シスター・カーネリアと行き合った。1歩退こうとしたとき、突然彼女がつまずいたようにこちらに倒れかかってきた。僕の肩につかまって体を起こすと、彼女は照れ笑いを浮かべて道をゆずってくれた。会釈をして先に通路へ出る僕。その後からカーネリアがほとんど間を置かず、ぴったりとついてきた。嫌な感じがした。右手が勝手に導力器を求めてポケットへ滑り込む。だが、いつもの真鍮の手触りは、そこになかった。
とたんに、強烈な力が僕の手首をねじ上げた。バチンと勢い良く金属の飛び出る音。僕の背中、ちょうど肝臓のあたりに、尖ったものが押し付けられる。
「探し物なら預かってるわよ、トビー」
シスター・カーネリアの唇が、僕の耳の裏側でかすかに動いた。
「動いたり、騒いだりしないでね、トビー。これ以上、痛い目に逢いたくないでしょう?」
シスターは手首を押さえる角度をわずかに変化させた。僕の瞳の奥で、色のない火花が散った。
車窓に額をくっつけたまま、指で2枚のチケットをこすり合わせた。帝都から鉄道ではるか南部の国境の都市へ、王国に行くにはそこから飛行船に乗り換えることになる。券はどちらも1等旅客の指定だ。客車はほぼ満席だったが、僕の隣には誰も座らなかった。もしかしたら、ミヒュトのやつがわざわざ空けたのかも知れない。だとすれば、今度の仕事はやつにとってもよほど割が良いに違いない。
「王国に行かれるんですか?」
鉄路の旅も半ばを過ぎた頃、突然声をかけられて、僕は顔を上げた。通路にひとりのご婦人が立っていた。
3重のバックルでコートの胸元を留めたその女は、30代の半ばくらいに見えた。わずかに肩にかかるほどの薄茶色の髪に、同じく茶色の瞳。よろしいですかと膝を折って僕の隣の空席を指し、「あちらは煙草の煙がひどくて」そう呟きながら、紫色の空気が漂う後ろの方へと視線を泳がせる。
僕は黙ってうなずき、足元のバッグを窓側に引き寄せた。女は礼を言い、隣の席に腰を降ろした。
彼女はしきりに話しかけてきた。僕は導力関係の仕事で王国向かう途中だということにして、適当に話を合わせた。彼女の方は、教会の慈善運動とかで、国境の都市に用事があるとのことだった。
「一応、シスターって呼ばれているんですよ」黒い革のブーツに包まれた足を組みかえると、女は喉の奥で笑い、「あだ名ですけどね」と続けた。「シスター・カーネリア」それが彼女のあだ名だった。
そのまま僕とシスター・カーネリアはしばらく世間話を続けた。陽は西に傾き始め、木立を抜けるたび、オレンジ色の光が客席の上をなめていった。西日を浴びて、彼女の茶けた瞳は赤き耀を放ち、僕は紅耀石(注1)に通じるそのあだ名の由来を想像した。
やがて列車はゆるやかに速度を落とし始め、荷物を取りに彼女は席へ戻った。僕はもう習慣になった動作で、バッグと魔法用の導力器を調べたが、反故紙の包みも、編み鎖で腰に留めてある導力器も、どっちも無事だった。
定刻通りの到着を告げる女性の声が車内に流れた。到着地の天候は雨。座席の間からいくつかのため息がもれた。ぼつぼつと窓に雨粒が弾け、青黒い町の影が、見る間に迫ってくる。駅の信号灯が、水滴に散乱して角ばった光を放っていた。背筋の冷たくなる金属音、そして、導力機関の推力が反転する衝撃。
手荷物への注意を呼びかけるアナウンスが入って、乗客がばらばらと通路に立つ。雨の中で手旗を振る駅員の制服を見ながら、僕もバッグを抱えて立ち上がった。
通路で、シスター・カーネリアと行き合った。1歩退こうとしたとき、突然彼女がつまずいたようにこちらに倒れかかってきた。僕の肩につかまって体を起こすと、彼女は照れ笑いを浮かべて道をゆずってくれた。会釈をして先に通路へ出る僕。その後からカーネリアがほとんど間を置かず、ぴったりとついてきた。嫌な感じがした。右手が勝手に導力器を求めてポケットへ滑り込む。だが、いつもの真鍮の手触りは、そこになかった。
とたんに、強烈な力が僕の手首をねじ上げた。バチンと勢い良く金属の飛び出る音。僕の背中、ちょうど肝臓のあたりに、尖ったものが押し付けられる。
「探し物なら預かってるわよ、トビー」
シスター・カーネリアの唇が、僕の耳の裏側でかすかに動いた。
「動いたり、騒いだりしないでね、トビー。これ以上、痛い目に逢いたくないでしょう?」
シスターは手首を押さえる角度をわずかに変化させた。僕の瞳の奥で、色のない火花が散った。
創作小説カーネリア・第二章<駆動(スペルアーツ)>
2005年10月21日 エッセイ「よう、トビー。いい時に来たな。」
僕にそう声をかけると、ミヒュトは、カウンターの中でもぞもぞと身じろぎした。食べていた焼き菓子を膝の上に置き、粉砂糖まみれの両手をぱんぱんと叩く。薄暗い店内に、甘い香料と焼きリンゴの匂いが広がった。
「ちょうど今、商品が届いたところさ」
ミヒュトは上半身をひねって、背後の戸棚から古雑誌の紙に包まれたものを取り出してよこす。
「今回はなんだい?」無駄と知りつつ僕はたずねる。
「相手は王国のいつもの場所だ」ミヒュトは質問を無視して、鉄道と飛行船のチケットを並べる。
「余計な心配はしなくていいぞ、トビー。いつもの通り、賢いお前でいて欲しいよ。」
深いため息をつくと、ミヒュトは指の腹でぐいぐいと目の下のクマをもんだ。その手がまた焼き菓子に伸びる。やつがそれを口に運ぶ前に、もう僕は店から出ている。
バッグの中で古紙の包みがころころと弾んでいた。わき腹にその運動を感じながら、たぶんこれも盗品なのだろうと、僕は品物の正体に見当をつけていた。
別に不安はなかった。正体不明の品物を運ぶことは慣れっこだったし、これまでどんなトラブルがあってもうまく切り抜けてきた。実際、仕事での経験のかいもあって、僕の導力魔法(注1)の知識と腕前は相当なものだった。だから駅でそれらしい連中を見かけたときも、必要以上に神経質になることはなかった。
ホームは、王国方面への列車を待つ乗客でごった返していた。ベンチは一杯で、仕方なく僕は入り口近くに立って待つことにした。バッグを持ち換えようと体をねじったとき、2人の男の姿が目に入った。そいつらは改札の前、ちょうど床に帝国国章の馬頭をあしらったタイル細工のある辺りで、何か話し込んでいた。すぐにもう一人やってきて、話に加わる。僕の目から見ると、連中のかっこうは及第点とは言えなかった。並外れて体格がよく、同じような髪形をしたその3人は、人ごみの中にいても良く目立った。
連中から視線をそらすと、僕はバッグを抱え直し、ポケットの中の導力器へ指先を這わせた。列車の到着を知らせる女の声が辺りに流れる。低い導力機関(注2)のうなりが遠くに感じられ、やがて、肩の上にのしかかってきた。
「大丈夫さ」小さく呟いたが、僕にその声は聞こえなかった。ブレーキ音をわんわんと響かせ、黒光する鉄のかたまりが線路に滑り込んでくる。導力機関が目一杯に逆推進をかけるのが、空気の振動で分かる。待合室から溢れ出た人々に押されるように、僕も客車の扉へと流されていった。車掌の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ改札の方が目に入った。さっきの男たちはもういなかった。タイルで作られた馬の横顔だけが、真っ赤になって僕をにらんでいた。
(注1)導力器が発明されたころは、その性能の高さに、魔法と言われていたが、今でも、導力器の高度な使用法を導力魔法と呼んでいる。
(注2)導力器は、この世界の中心的な道具であり、機関車などもこれで動いている。
僕にそう声をかけると、ミヒュトは、カウンターの中でもぞもぞと身じろぎした。食べていた焼き菓子を膝の上に置き、粉砂糖まみれの両手をぱんぱんと叩く。薄暗い店内に、甘い香料と焼きリンゴの匂いが広がった。
「ちょうど今、商品が届いたところさ」
ミヒュトは上半身をひねって、背後の戸棚から古雑誌の紙に包まれたものを取り出してよこす。
「今回はなんだい?」無駄と知りつつ僕はたずねる。
「相手は王国のいつもの場所だ」ミヒュトは質問を無視して、鉄道と飛行船のチケットを並べる。
「余計な心配はしなくていいぞ、トビー。いつもの通り、賢いお前でいて欲しいよ。」
深いため息をつくと、ミヒュトは指の腹でぐいぐいと目の下のクマをもんだ。その手がまた焼き菓子に伸びる。やつがそれを口に運ぶ前に、もう僕は店から出ている。
バッグの中で古紙の包みがころころと弾んでいた。わき腹にその運動を感じながら、たぶんこれも盗品なのだろうと、僕は品物の正体に見当をつけていた。
別に不安はなかった。正体不明の品物を運ぶことは慣れっこだったし、これまでどんなトラブルがあってもうまく切り抜けてきた。実際、仕事での経験のかいもあって、僕の導力魔法(注1)の知識と腕前は相当なものだった。だから駅でそれらしい連中を見かけたときも、必要以上に神経質になることはなかった。
ホームは、王国方面への列車を待つ乗客でごった返していた。ベンチは一杯で、仕方なく僕は入り口近くに立って待つことにした。バッグを持ち換えようと体をねじったとき、2人の男の姿が目に入った。そいつらは改札の前、ちょうど床に帝国国章の馬頭をあしらったタイル細工のある辺りで、何か話し込んでいた。すぐにもう一人やってきて、話に加わる。僕の目から見ると、連中のかっこうは及第点とは言えなかった。並外れて体格がよく、同じような髪形をしたその3人は、人ごみの中にいても良く目立った。
連中から視線をそらすと、僕はバッグを抱え直し、ポケットの中の導力器へ指先を這わせた。列車の到着を知らせる女の声が辺りに流れる。低い導力機関(注2)のうなりが遠くに感じられ、やがて、肩の上にのしかかってきた。
「大丈夫さ」小さく呟いたが、僕にその声は聞こえなかった。ブレーキ音をわんわんと響かせ、黒光する鉄のかたまりが線路に滑り込んでくる。導力機関が目一杯に逆推進をかけるのが、空気の振動で分かる。待合室から溢れ出た人々に押されるように、僕も客車の扉へと流されていった。車掌の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ改札の方が目に入った。さっきの男たちはもういなかった。タイルで作られた馬の横顔だけが、真っ赤になって僕をにらんでいた。
(注1)導力器が発明されたころは、その性能の高さに、魔法と言われていたが、今でも、導力器の高度な使用法を導力魔法と呼んでいる。
(注2)導力器は、この世界の中心的な道具であり、機関車などもこれで動いている。
創作小説カーネリア・第一章<帝国時報(インペリアルクロニクル)>
2005年10月8日 エッセイネタなぞないので、創作小説でも・・・
僕は、回転ドアの前に立ち、長靴のかかとを、こつこつと鳴らした。コートの襟をひっぱり、あごをひいて、湾曲したガラスに映る、自分の姿を眺める。短く切り揃えた頭髪に、どこにでもあるような革のコート、同じく革製のブーツは実のところ、鉄板で補強された特注品だが、見た目ではわからない。
ごくごく平凡な見た目・・・今も昔も、僕の仕事では、それが重要だった。
スズ色に照らし出された朝もやの中からは、大路を行き交う人々の靴音が、まるで振り子仕掛けのように規則的に響いてくる。時折、物売りの声に流れを断ち切られるが、それはすぐさま再開される。
帝都にやってくる朝は、いつだって灰色だ。僕は、売り子の脇から雑誌をかっさらい、後ろ手に金を投げてやる。インクのにじみまで見慣れた、帝国時報誌。
手荒く表紙を開き、灰色の紙面の上に、目を走らせる。ふと、息が止まった。
社会面の一番下で、その文字を見つけた。僕の目は一瞬で吸い寄せられ、それきり動かなくなった。
「アインセルナート」文字が意味を失い、ただのインクのしみとなるまで、同じ行を繰り返し僕は眺めた。数秒の空白の後、ようやく視線は記事の先へと流れていった。読み進むうち、記憶が、過去のある一点に向かって、ゆっくり逆周りに流れ始めた。僕がはじめてこの名前を聞いた、3年前の数日間の出来事に向かって・・・
3年前のその日の午後も、今日と変わらず帝都は灰色だったはずだ。今より少し若かった22歳の僕は、いつも通り、ブティックのドアで身だしなみを確かめると、足取りも軽く、「ミヒュト帝国工房」へと向かっていた。店主のミヒュトから、新しい仕事をもらえる手はずになっていたからだ。
ミヒュトは小さな工房を営む冴えない中年男で、導力器いじりが趣味だった僕は、やつの店の数少ない常連だった。
じめじめした路地を抜け、腐りかけた木戸をくぐると、半分地下に潜りこんでいる工房の入り口に、ぼんやりと動力灯が光って見える。
ミヒュトが僕に仕事をくれるようになったのは、100日戦役(*1)で世間がごたごたしていた頃だ。当時、リベール王国(*2)と帝国の関係は最悪で、動力器の輸入はほとんどストップしている状態だった。素性の怪しい奴らと組んで密輸を企てたミヒュトは、僕にその片棒を担がせた。運び屋の役をくれたのだ。
平民出のコネもない10台のガキだった僕は、当然その話に飛びついた。王国との関係が正常化した後は、もうほとんど、盗品専門の運び屋みたいになっていたけど、足を洗う気はさらさらなかった。まともに金を稼げる仕事なんて、他には無かったからだ。
垢抜けない、人目につかない格好をした僕は、帽子やパンツの中に品物を隠し、国境を往復し続けた。おかげで、僕の財布はどんどん重くなっていったが、用心のため、定期的に偽名を変えてしまったせいで、2,3、年のうちに、名前までずいぶんたまってしまった。僕はお調子者のフィルであり、早業のルーニーであり、そして、同時に、臆病者のクリスでもあった。だけれど、ミヒュトのやつはいつだって、僕を「トビー」と呼んだ。それは、僕らが最初に仕事をした時の偽名で、僕が一番気に入っていた名前でもあった。
(*1)100日戦役…帝国とリベール王国との間で起きた戦争。帝国による先制攻撃で始まったが、リベール王国の奇襲作戦によりあえなく敗退した。
(*2)リベール王国…帝国の南に位置する小国家。セピスという鉱石の持つ磁力をエネルギーに変える装置、導力器、の生産がさかんで、世界中の8割以上の導力器を生産している。
僕は、回転ドアの前に立ち、長靴のかかとを、こつこつと鳴らした。コートの襟をひっぱり、あごをひいて、湾曲したガラスに映る、自分の姿を眺める。短く切り揃えた頭髪に、どこにでもあるような革のコート、同じく革製のブーツは実のところ、鉄板で補強された特注品だが、見た目ではわからない。
ごくごく平凡な見た目・・・今も昔も、僕の仕事では、それが重要だった。
スズ色に照らし出された朝もやの中からは、大路を行き交う人々の靴音が、まるで振り子仕掛けのように規則的に響いてくる。時折、物売りの声に流れを断ち切られるが、それはすぐさま再開される。
帝都にやってくる朝は、いつだって灰色だ。僕は、売り子の脇から雑誌をかっさらい、後ろ手に金を投げてやる。インクのにじみまで見慣れた、帝国時報誌。
手荒く表紙を開き、灰色の紙面の上に、目を走らせる。ふと、息が止まった。
社会面の一番下で、その文字を見つけた。僕の目は一瞬で吸い寄せられ、それきり動かなくなった。
「アインセルナート」文字が意味を失い、ただのインクのしみとなるまで、同じ行を繰り返し僕は眺めた。数秒の空白の後、ようやく視線は記事の先へと流れていった。読み進むうち、記憶が、過去のある一点に向かって、ゆっくり逆周りに流れ始めた。僕がはじめてこの名前を聞いた、3年前の数日間の出来事に向かって・・・
3年前のその日の午後も、今日と変わらず帝都は灰色だったはずだ。今より少し若かった22歳の僕は、いつも通り、ブティックのドアで身だしなみを確かめると、足取りも軽く、「ミヒュト帝国工房」へと向かっていた。店主のミヒュトから、新しい仕事をもらえる手はずになっていたからだ。
ミヒュトは小さな工房を営む冴えない中年男で、導力器いじりが趣味だった僕は、やつの店の数少ない常連だった。
じめじめした路地を抜け、腐りかけた木戸をくぐると、半分地下に潜りこんでいる工房の入り口に、ぼんやりと動力灯が光って見える。
ミヒュトが僕に仕事をくれるようになったのは、100日戦役(*1)で世間がごたごたしていた頃だ。当時、リベール王国(*2)と帝国の関係は最悪で、動力器の輸入はほとんどストップしている状態だった。素性の怪しい奴らと組んで密輸を企てたミヒュトは、僕にその片棒を担がせた。運び屋の役をくれたのだ。
平民出のコネもない10台のガキだった僕は、当然その話に飛びついた。王国との関係が正常化した後は、もうほとんど、盗品専門の運び屋みたいになっていたけど、足を洗う気はさらさらなかった。まともに金を稼げる仕事なんて、他には無かったからだ。
垢抜けない、人目につかない格好をした僕は、帽子やパンツの中に品物を隠し、国境を往復し続けた。おかげで、僕の財布はどんどん重くなっていったが、用心のため、定期的に偽名を変えてしまったせいで、2,3、年のうちに、名前までずいぶんたまってしまった。僕はお調子者のフィルであり、早業のルーニーであり、そして、同時に、臆病者のクリスでもあった。だけれど、ミヒュトのやつはいつだって、僕を「トビー」と呼んだ。それは、僕らが最初に仕事をした時の偽名で、僕が一番気に入っていた名前でもあった。
(*1)100日戦役…帝国とリベール王国との間で起きた戦争。帝国による先制攻撃で始まったが、リベール王国の奇襲作戦によりあえなく敗退した。
(*2)リベール王国…帝国の南に位置する小国家。セピスという鉱石の持つ磁力をエネルギーに変える装置、導力器、の生産がさかんで、世界中の8割以上の導力器を生産している。